2012/09/22

父親のこと


前もって言っておきたいのだけれど、父親は存命である。
今から私がここに書くことは無口な父親に代わって母親が話していことと、私の周りの人から聞いたこと、そして私がこうあってほしいという願望が含まれた内容だと思ってほしい。

私の父親は群馬県の山の中で育った。
生まれつき心臓が弱くて、外で駆け回って遊ぶことが出来なかった彼は勉強に没頭した。本もよく読んでいたという。そんな彼も、高校は工業高校を選んだのだけれど、決してそれを望んだのではないと思う。ただ、時代が時代なだけに、男子は工業系、女子は商業系に入ることが当たり前だったから。大学進学なんて誰も考えていなかった。そうして、卒業した彼は地元の工場に就職し、ベルトコンベアーに流れる部品のチェックをひたすらしていた。毎日毎日、流れが変化する訳もないそれをずっと眺めていた。そこで、母親と出会ったらしい。馴れ初めなんて知らないし、聞きたくもないけれど、職場恋愛しかなかったんだということは想像に難くない。そうでもしていなくてはやってられないくらいの何かがあの田舎にはあると思う。

けれど、いつしか父親はフランス料理屋で働くことを決め、工場を辞めていた。なにがどうなってこうなったか聞いたことはないけれど、その街に唯一あったそのフランス料理店が彼の何かをつかんだのだろう。以前から料理をするのが好きだったのかもしれない。とにかく、彼はそこで働き始めた。そのうちに母親もそこでウェイトレスとして働くことになった。ここら辺が今の夫婦関係を見ていると想像もつかないところである。でも、そうなった。そうして数年そこで働きながら、勉強を重ね、彼はフランスに行くことを決めた。おそらく、最初の転職も、この料理修業のことも、母にすら相談していなかったのだろうと思っている。何故なら、私だったらそうするからだ。そんなこんなで彼は行ってしまった。

典型的アジア人顔、日本人というより寧ろタイ人である彼はフランスでどんな生活をしていたのか。私は知らない。絶対に聞かない。聞いてしまったら恥ずかしくてどうしようもない。とにかく、そこでパンをカフェオレに浸しながら食べる癖がついたのだと思う。私も子供のころはパンはそうして食べるものだと思っていた。今でもアジア人男性が受けないと聞くヨーロッパで、彼がモテた筈もなく背も低いので尚更大変だったのではないか。でも、そんなことを気にする人ではないとも思う。まぁ、母親がいたしそこで羽を伸ばされても困るのだけれど。そうして(私にとって)暗黒のフランス生活に突如母親が加わった。どうも会いたかったらしい。愛おしい。とは言っても帰る直前だったようで母にとってはただの旅行だった。

帰国して、街の商店街外れの地下室のようなところにお店を構えた。私の記憶もそこから始まる。かなり狭い店内で、厨房も殆ど歩くスペースしかないようなところに私はフットマットを敷いて、踏み台を机代わりに絵を描いたり、働く父親と母親を見ていた。そのうちに、その地下室から抜け出して今は東京スカイツリーの横を通る路線の続く駅近くに店を作った。店が一階、住居スペースが二階、そんな一戸建て。今もそこに居る。

父親が生まれた時から心臓が悪いというのは前述した通りだが、手術をして今は問題ない。ただその時の麻酔の所為で耳がよく聞こえなくなった。父親の心臓は一度停止させられて、再び動き出した。その痕は肉が抉れたようになっていて、なぞると指先から痛みが伝わってくるんじゃないかと思う。そして、一度トイレの中で倒れたこともある。脳梗塞だった。薬を飲むだけの治療だったけれど、ブロッコリーと納豆が食べられなくなる生活は可哀想だった。もうひとつ、大腸ガンにもなった。よくもまぁこんなにいろいろ襲いかかってくるものだと思うのだけれど、今も生きているから別にいい。死ななければいい。

正直、私は父親が羨ましい。
きっと何一つ後悔しないように生きている。自分の人生を本当に自分のものにしている。それが羨ましい。こうして、人生のことを考える年齢になって思うのは行動力とある程度の予定を受け入れることが後悔から遠ざかる方法なのだと気がついた。それでも私はまだ何もできていない。

私は父親が母親と結婚して10年目で生まれた子供である。そして彼の子供は私一人だ。大事にされているという自覚がある。さて、60年生きてきた彼の人生の中で私の20年間はどんな意味があることなのだろう。私は彼に何をしたのだろう。問うてみても何も思い浮かばないのだからどうしようもない。


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